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云ひながら、ぽんと軽く下腹をたゝいてみせた。そして、微笑した、悪戯いたづらつ子のやうな目つきで、ぢつと房一の顔をのぞきこんだ。それは驚くほど巧みな打明けだつた。
孫息子に手つだはれて、そろそろと縁側に腰を下すと、道平は何か云ひたげに盛子の顔を見まもつた。そして思ふことがうまく口に出ないときにやる、一心な、どこか苛々いらいらした目つきになりながら、殆ど癇癪を起しさうになりながら、やつと云つた。
これらの、過去一年あまりの中に或ひはひよつこりとした凸起をなし、或ひはまはりをぼかしたまゝ遠のいているさまざまな出来事のうちで、たつた一つのことが抜け出し、それは一向に過ぎたことにならないで依然としてつゞき、絶えず現在として変化し、房一に或る影響と関心を与へているものがあつた。たつた一つ――それは盛子の妊娠であつた。
「いや、そのうち。――ぜひ御相談があるんですが。――そのうち、一度来ていたゞいて。いや、私の方から出かけませう。や、又――」
とにかく、それは遠い向ふで起つていることだつた。対岸の火事を見物するやうなものだつた。
「へえ。――わし達は小倉組の者ですが、ちよつと怪我人ができましたよつて、せんせいに御面倒かけに上つたんですが」
と、入るや否や皆の前にひろげられた紙衣裳に目をつけた小谷は、ふだんよりもよけいきいきい声になつて愉快さうに云つた。この衣裳はその日の午前中に各戸に配られたのでどの家でも愉快な興奮をひき起したのである。町内の寄りでひよつと誰かが云ひ出したのは、もとより大隈首相をはじめ式典に参列する大官連の衣冠束帯からヒントを得たものであるが、結局紙製でといふことに話が落ちつくまでに、散々皆の頭をしぼり、賑かな笑声を立てたのである。が、実際に品物ができ上つてみると、想像していたよりもはるかに珍妙な仮装であることが判つた。しかも、いゝ年輩の戸主連がこの揃ひの紙衣裳で町を練り歩かねばならないといふことが味噌みそだつた。めでたい色だといふので赤が選ばれたのだが、何しろそれは安物の紙風船が雨にぬれて色が浸み出したやうなぼんやりした斑まだらに染め上げられ、触るたびにばさばさと大げさな音をたて、折目はぴんと立ち、皺はあくまで強情にしかもだんだんふえるばかりで裾だの袖口がをかしな風にまくれ上つて云ふことを利かないのだつた。いくらかへうきんなところのある小谷は、早速それを着用に及んで、座敷の中を威儀をつくつて歩きまはり、家の者の腹を抱へさせたので、その恐るべき効果は十分味つていたのである。で、他の家の主人達がどんなにそれを着こなすものか、今となつてどんなに尻ごみするものか、様子を見たくなつて、先づ手はじめに房一のところへ出かけて来たらしい。
房一は叫んだ。犬は房一の顔を見上げ、二三間走り、後がへりをし、それから急に葉の落ちた灌木の中にとびこんで行つた。がさがさやつて、ずつと先の路に出た。きよとんとし、時々匂ひを嗅いだ。
山腹の中ほどの曲角で房一は立ちどまつて汗をふいた。今ではもう真下にひろがつて見える桑畑の外れにぐつと落ちこんだあたりを曲りながら流れる川の水流がぎらついていた。その下手に、河原町のいろんな形の屋根がかたまり、とぎれ、又つゞいていた。このあたりは子供の時分に遠走りに遊び歩いて来たことがある位で、房一には殆ど縁のない場所だつた。殆ど二十年ぶりだらう、そこに立つて様子の変つた河原町を眺めていると、房一は何とはなしにゆるい感動の湧いて来るのを覚えた。こゝで見る河原町はその小粒の屋根のせいか、手にとつて楽しむことができさうに、何だかなつかしかつた。そのなつかしい何ものかは、彼の記憶の遠くに彼の存在の奥深くにつながつていた。しかも、今彼自身は以前には思ひもかけなかつた河原町の医者としてこゝに立つている。
「うん」
神経質な目ばたきをしながら、練吉は口早に引きとつて云つた。
「さやうでござりますか」
肉が部厚に盛り上つているために自然と深くできた額の横皺、稍やゝ動物的な感じのする大きな眼玉、近頃その上に髭を蓄へはじめた厚いふくらんだやうな唇、それらのあまり美しいとは云へない部分々々を一つの形にまとめるやうに顔の下半から張り出している円い確しつかりとした案外柔味のある顎――盛子が結婚後最初に覚えたのはこの円い顎だつた。それは房一の顔に調和と落ちつきを与へていたばかりでなく、盛子の胸に何かしら安心と親しみ易さを感じさせた。